第三章 ジェイムズ経験論の発展

第一節 プラグマティズムについて─その理論的特徴─


 ジェイムズのプラグマティズムは現在に至っても尚研究されるべき未知の部分を残している。ラッセルがジェイムズの『プラグマティズム』を読んで、水が知らないうちに熱くなってくるので、いつ呼んだらよいかわからない風呂に入っているようだとつぶやいた言葉は、丁度ヘーゲル哲学の体系を「一つのねずみとり器」
(1)と称したジェイムズへの見事なしっぺ返しとなっている。
 全くのところジェイムズの非体系的で反主知主義的なこの思想はヘーゲルのそれとは全く対照的であるにもかかわらず、人間の知性を苦しめているという点で共通しているのである。又ベルグソンがジェイムズの著『プラグマティズム』の仏文訳に序文を書いたのも「ジェイムズの思想がさまざまな解釈によってたいていの場合値引きされたり変質された」
(一)と感じたからであり、さらにはカント研究家としても知られる日本の高坂正顕氏は『ウィリアム・ジェイムズの認識論と形而上学』なる論文を書くに際し、わざわざ次のような断り書きをしている。
 「ウィリアム・ジェイムズは過去の人である。プラグマティズムは過去の学説である。と多くの人は云ふであろう。今さら何の用あってジェイムズの名を揚げ、その学説に就て論ぜんとするのであるか、プラグマティズムと云ふ名称が即に何か厭ふべきものであるかの如き感を与えつつあるではないか。人はプラグマティズムの名を他人の学説に冠することによってその学説を毀損し得たりとなし、彼は又プラグマティズムと比較さるる事によって大なる侮辱を蒙ったと考へる。かくの如き時にあたって何故にプラグマティズムに就て論ぜんとするのであるか。」
(二)高坂正顕氏はジェイムズのプラグマティズムの中に一般的に評価されているもの以上のなにかがあると判断して、ジェイムズの思想が決して簡単に抹殺されるべきでない点を力説しているのである。
 それでは何故にジェイムズのプラグマティズム
(三)が後の人間の精神を様々な形でゆり動かしたのか。一言でいうならば、ジェイムズはプラグマティズムの意味をきわめて広い範囲にわたって用いた点があげられるだろう。彼によればプラグマティズムは思考の方法であると同時に「真理によって意味されているのものの発生論的理論」(2)であった。
 前者の方法としてのプラグマティズムについて、われわれは詳細に論述をするまでもないであろう。あまねく知られているこのプラグマティズムはいわゆる「事物を取扱う方法」の意であり「他の方法では際限ないであろう形而上学的論争をおさめる一つの方法」
(3)としてわれわれの哲学的思考に一つのパターンをうえつけているのである。とはいえこの考え方の一般化はジェイムズによってというよりはパースによって確立されたといわれている。彼が『いかにしてわれわれの観念を明晰にするか』の論文の中でのべた次の定義、即ち「われわれの概念の対象が実際に結実すると考えられるどのような諸結果をもっている、とわれわれが考えるか、ということを考察せよ、そうすればこれらの概念が対象の概念のすべてなのである」(四)は非常に難解な表現であるにもかかわらず、プラグマティズムの守則として代表されている。
 それ故プラグマティックな方法とは、概念の意味はその概念がまきおこすわれわれの生の反応の仕方とそれから導出される実際的結果によってあきらかにされる、という一つの考え方のもとに、実際的結果、具体的結果を迎えるという「簡単なテスト」
(4)の実施、を意図しているのである。
 しかしながらジェイムズ固有のプラグマティズムが存在するといわれる所以はプラグマティズムにおいても真理論が展開されうるという点である。いいかえればプラグマティズムは「真理の道に出発する最も近い方向」をとるばかりではなく、真理をえるための所説でもあったのである。これは何を意味するのであるか。端的に言えば「真理の道に出発する最も近い方法」そのものを真理とする考え方、いいかえれば真理の問題を内在的にとらえなおす観点に転じて真理をわれわれの観念の作用性workablenessとするの意である。
 これがジェイムズの発生論的理論としての真理論なのであり、真理側とは隔たったところに位置する超越性をもっているという考え方に対立して、あくまでもわれわれの観念の中に生じてくるものとして考えられている。かくて「観念の真理は観念に属する枯れた特性ではない。真理は観念に起こる。それは真実になり、出来ごとによって真理とされるのである。真理の真理性は実際ひとつの出来ごと、ひとつの過程である」
(5)とジェイムズは定義する。ジェイムズにとって真の観念とは「われわれが同化し、確認し、確証し、検証することのできる観念である。」(6)
 とはいえジェイムズのように、真理を観念の真理としてとらえ、逆に観念についてのなにものか、即ち観念の作用性についてのものでなければ、すべて真理についての超越的な見解であるという考え方にも問題があるともいえるだろう。真理がわれわれのなんらかの対象についての何かを意味するものでないとするならば、それは単に実在への主観的な関係にすぎず、唯我論の世界において認められるきわめて限定的な真理であるといわれるだろう。
 ここにジェイムズのプラグマティズムの理解の困難性がみられるのである。それ故ジェイムズのプラグマティズムは真理論を展開するにあたって、様々な誤解をもたらしている。そこでわれわれはプラグマティズム(特にジェイムズ)に対してなげかけられる批判がジェイムズにとってどのような形で誤解となってうけとられていたか、をさしあたり考察してみようと思う。ジェイムズはそれらを以下の八つの誤解としている。
 第一の誤解 プラグマティズムは実証主義のやきなおしにすぎない。
 第二の誤解 プラグマティズムは元来行為への訴えである。
 第三の誤解 プラグマティストは他人の意識内に存在する諸実在を信じる権利から自ら       を切りはなしている。
 第四の誤解 プラグマティストは彼の認識論において実在論者であるはずがない。
 第五の誤解 プラグマティストがいうところのものは彼がそういっていることと一致し       ていない。
 第六の誤解 プラグマティズムは真理がなんであるかを説明せず、それがいかにしてあ       らわれるかについてのみ説明する。
 第七の誤解 プラグマティズムは理論的関心を無視する。
 第八の誤解 プラグマティズムは唯我論にとじこめられている。 
 実はこれら八つの誤解はジェイムズにとっては彼のプラグマティズムの理論的性格から導出されるものであり、主観的にはジェイムズの反論を喚起させるものであろうが、皮肉にもこれら八つの誤解とされている内容こそ、最もジェイムズ的なプラグマティズムを最も端的に評価し、且つその不明確さをついているのである。いいかえればこれら八つの誤解こそ、誤解であるどころかジェイムズのプラグマティズムの特徴そのものであり、これら八つの誤解の総合が彼のプラグマティズムを最もよく伝えているといわれてもよいかもしれないのである。
 ここにジェイムズの意識の中においてなぜにそれらが誤解として映じられていたかを考えてみるに、逆説的にジェイムズ思想の奥深さないしは不可解さが感じとられるだろう。とはいえ厳密にいえばこの八つの誤解の総合でもって、説明されざる部分がうきぼりにされているということは間違っている。ジェイムズのプラグマティズムは他の幾多の主知主義的定義をもってきてもそこからあふれでる何かを有していると考えられるからである。しかしながらその指摘された誤解の各々を吟味することは、彼のプラグマティズムに近づける一助になるので以下それを詳細に論述してみよう。
 まずプラグマティズムが実証主義であるというのは「最も通俗的な誤り」(7)であるとジェイムズはいう。確かにプラグマティズムは、ジェイムズのいうように、「言語上の解釈、無用な質問、形而上学的な抽象をきらうことにおいて実証主義と一致する。」
(8)それならば「いつも特殊に訴えることにおいて名目論と一致し、実際的方向を強調することにおいて功利主義と一致する」(9)点も忘れられてはならないのである。
 ジェイムズにとって批判される実証主義とは(不可知論、懐疑論も含め)勝手に実在を既成されてあるもの、完全なものとして考える点において合理論的色彩をおびている。そしてそれは実在への一致の証拠をさがそうとするが、実証主義者が待っている「証拠」はわれわれが受身でいる限り決してあらわれえないのだ。それに反してプラグマティズムは実在を形成中のものとして考えているから、受身でその証拠を待とうとはしない。むしろ証拠を与えられるものとしてではなく、認識におけるやすらぎ(功利主義的に考えれば、満足)の方向へと内在化することによって、真理をも又形成しようとするのである。真理はあらかじめ知られるべき存在としてあるのではないのである。
 それではプラグマティズムは何によって真理を形成するのか。それはわれわれの「行為」であるという。なぜならば真の思想の所有はどこでも行為の貴重な道具の所有を意味すると考えれているからである。このためジェイムズが「真理をえる義務はすぐれた実際的理由によって説明されうる」
(10)とまともに考えているならば、行為によって検証された真理は、すぐれた実際的理由の証左でもある行為に重きをおき、われわれの心的世界の内部における作用を第二義的にみているといわれてもしかたがないであろう。
 この点ジェイムズはどのように考えていたのか。真の観念をもっていることは確かに行為のための道具として機能はするけれども、そのことは同時に観念の作用性workablenessの十全的状態をも意味しているのである。
 従っていかなるものであれ、ある行為へ訴えていればそれだけでよいといわれるのではなく、重要なのは観念が作用するための「認識論」的構造の方向性なのである。ジェイムズは次のような例で説明する。「このプラグマティズムの理論は、われわれの観念を実在の補充的要因として提示しているので、(観念はわれわれの行為へと誘導するものであるが故に)人間の行為への広き窓を開放するが、同様に思想の創意への広き特許状をも開放する。」
(11)それ故ジェイムズは第二の誤解をとる人こそが逆にわれわれの二義的な仕事である行為への関係を第一義的なものとしている、というのである。
 だがわれわれはジェイムズのプラグマティズムについては次のように理解せねばならない。ジェイムズにおいては「行為そのものがすべてをきめる」のではないにしても、結果的には行為へとなんらかの形で訴えようとする意図が認められる点及び主意主義的立場にたつジェイムズが行為へ訴えようとしている過程を心的作用の真理として認めているにもかかわらず、それが行為への訴えに至らなくてもよいという考え方にあまんじるはずがない点である。
 次ぎにジェイムズのプラグマティズムの真理論において真理がわれわれの信念のそれとしてあり、しかも信念が真理を立証する根拠であるとされた結果として、投射として存在している諸現実(例えば他人の頭痛)が実際には認められなくなってくるのではないかという問題が生じてくる。それに反しジェイムズは他人の頭痛が類推によって信じられている以上は、一つの実在性をもっている、と考える。しかしながらそもそも信じられているということは客観的には何を意味しているのであるか。信じられているということは経験のその他の部分に対しては責任をもてないということであり、自らの経験とならざるものからは完全に切りはなされているという考え方の満足の感情の状態に他ならないのである。
 にもかかわらずジェイムズが尚且つ実在論者として辞さないのはなぜなのか。それは実在と諸観念をもつ精神がともに属しているような世界を唯一の世界と考えているからである。(ジェイムズはその世界を経験の中にいれてしまう。)そしてわれわれの諸観念はそういった世界における実在をさし示し、そこへと導いていくということ、及び志向性と導きがその結果としてある種の満足をもたらし、その満足によってわれわれが実在を認めうるということを当然の如くに思っていたからである。
 そのような形で実在を認識する人間を「プラグマティズムによる認識論」
(12)者ないしは「認識論的実在論者」(13)とジェイムズはよぶ。そこでは普通の認識論が問題にするところの実在に対する観念の一致という一つのパターンは抽象的であるとされ、仮令一致が問題とされ真理が導出されるにしても、その一致の吟味、即ち経験的世界における現金価値がどれだけであるかの吟味が必要とされているのである。そのためには真理を構成するのは実在を正しく認識するという純粋に論理的ないしは客観的機能であるとみなされるのは間違っている。真理を構成するのも又感情なのである。このような感情は実在論的立場からとらえれば、なんら現実的な存在と関わりなくてもよいかのような誤解を与えているが、しかしながらジェイムズによればそれは常に経験的世界における現金価値(それは満足、有用性によって裏うちされている。)を問うているという意味で、独り観念の世界にまとわりついているものでは決してないのである。
 ここでわれわれはジェイムズが満足ないしは有用性を真理形成の背後にひかえさせているということでもって生じる誤解をとく必要があるだろう。満足を与える作用がプラグマティックな説明の本質であるとはいえ、それは常に実在へと向かう真理化の過程においてみられなければならないという意味においてである。そしてそこでは信念という実在の認識根拠の有無によって正当に評価されているのでなければならないのである。同様に有用性とは丁度真理性が経験の中で観念が真理化の過程をとりはじめることに対する名前であるように、その真理化の過程の完成された機能に対する名前にすぎないのである。従って満足ないしは有用性なる概念はただわれわれの経験の動機たるべく一方的に影響づけるものであるのではなく、われわれが実在をはっきりつかもうとする信念の作用のなかになければならないのである。
 とはいえプラグマティズムの側からも困難性がみられる。プラグマティストが自らの信念を正しいということを確かであると思いえるのか、である。そう思うためには自らの満足が他人にとっても満足であること、少なくとも満足に作用することが必要である。しかし自己の信念にともなう満足が他人にとって不満足に作用する場合(結果としておこりうる)、ないしは自己の信念すらが他の方法への依存によって不満足に作用する場合、プラグマティストは自分の意図とあきらかに異なった内容の結果をもつという事態が生じるが(しかもこの場合現実的に多く生じると考えられる)、これはおかしくはないのであろうか。
 ここで自分の信念と同じ信念が自分の信念の影響の結果として他人にも生じ、同じ満足をともなってほしい、と期待してみたところで仕方のない話である。又自分の信念が実在性にまでたかめられた次元では客観的性質をもつ筈だから、そのみえるがままのものとして、他における満足の作用も生じるのだと独断的に考えてみたところで、われわれを納得させる根拠としては不十分であろう。それ故プラグマティストは自分の信念の正しさについては客観的に確信しえない。信念は主観的に正しいのである。ただプラグマティストはそれを客観的にも正しいのだと思わなければ、主観的にも正しいと思う意図さえも、いいかえれば信じる権利さえも奪われると恐怖する、弱点をもっているのである。
 さて真理とはわれわれの「信念の関数」
(14)であるというのがジェイムズの真理論の端的な表現であろう。真理は信念によって変わる。そして古い真理は常に新しい真理にとってかわられる。このような真理は二つの特徴をもっている。一つは真理はわれわれの心的作用における真理であり、常に経験のできごとでなければならない、ということである。二つは真理は事実の中にはじまり、事実の中で終わるということであり、かかる事実の中で信念の関数としてあるということである。
 これらの定義から生じる疑問の代表的なものは、それでは「真理」がなんであるかを明確に答えられるか、である。ここからプラグマティズムに対する第六の誤解、即ちそれは真理がなんであるかを説明せず、真理がいかにしてあらわれるかについてのみ説明する、という誤解が生じる。ジェイムズによればこれらを区別して考えること自体がおかしいのである。たしかに抽象的な言葉「いかにしてhow」と抽象的な言葉「なにwhat」は同じ意味をもっていない。しかしながら「具体的事実のこの世界においては」
(15)「いかにしてあるものhows」と「なにかであるものwhats」とはばらばらに保たれるものでは決してない。いいかえれば真理がいかにあらわれるかの過程をみる中において、すでに真理がなんであるかの解答がえられているのである。なぜならば真理とはその現金価値がいくらであるかという観点から問われているからであり、そこでは真理は現実(しかもわれわれの関心がむけられているところの現実)に満足的に答えるものとして対象化されているからである。
 それ故ジェイムズの真理論は真理の「hows」にも又「whats」にも十分に答える機能をもっている。単に真理がなんであるかを考えるように強制する人の描く真理とは、丁度「誰もそれを試みようとしなかったけれどもピッタリとあう上着」
(16)ないしは「誰も耳をかたむけたことのない音楽」(17)のようなものであり、それ故にそれらがあるということ(真理の存在)について考えてくれる人もいなければ、それらを検証してくれる人もいない抽象的特性以外のなにものでもないのである。そしてかかる上着や音楽についてわれわれはただそれらの定義については言えるけれども、具体的にどのように機能しているかについては少しも考えることはできないであろう。
 逆にジェイムズのように「いかにして真理があらわれるか」の観点にたてば、その時点でそれを明晰に考えるわれわれの経験が無視されえないために真理はその存在とその本性について特殊なイメージを描かねばならなくなってくるのである。丁度y=f(x)がyについて何も定義していないのではなく、xという変数に対応する限りでのある存在yを具体的にしめしえるように、真理というyはわれわれの信念というxたる変数によって明確に規定されたものとして例証しえるのである。従ってジェイムズによればプラグマティズムは「真理がいかにあらわれるか」についてのみ語るが、それによって「真理がなんであるか」についても語っているのである。
 ところでこの第六の誤解が誤解でもなく(不十分ながらも)正しい指摘であると考えるわれわれにとってはy=f(x)の定数(信念関数の定数)が満足性satisfactorinessないしは有用性utilityといった如く、主観的性格のふんぷんとするものから違ったもの、あるいはそれらの客観性が保証されたものとして詳細に論述されていたならば、あえてプラグマティズムは「真理がなんであるか」について説明していないといわれなかったであろう。従ってジェイムズの真理論は真理がわれわれのお好みによって勝手気ままにあらわれては消える幽霊のようなものであるといわれてもしかたがないであろう。
 さて次にプラグマティズムに対する誤解として考えられる有名なものは、プラグマティズムは理論的関心はどうでもよいように考えている、ということである。これはどこから導きだされてくるかといえば、プラグマティックな方法、即ち概念の意味をあきらかにするには実際的結果 practical consequence、実際的差異 practical difference に注目し、それらを吟味するという方法のきまぐれ的な理解からである。
 これに対するジェイムズの反論は「実際的」という言葉があまりにもルーズに使用されているという観点から、それさえ使えば万事が理論の煩雑さから猶予されると考える安易な人間的態度を責めるという形でなされる。ジェイムズによれば「実際的」という言葉は、第二の誤解にみられるように、行為してみればすべてがきまるという点、あるいは行為へ訴えればその前にある理論的性格は二の次だという点を強調しているのではない。実際的結果ないしは実際的差異という言葉の使用において意味されているのは、特殊的結果ないしは特殊的差異であり、それらによってわれわれが具体的に対象をとりあつかえるということなのである。
 それは何を意味するのであるか。われわれが特殊的事実に着目しているということはわれわれがなんらかの形で一つの具体的行動をとりうるということであり、検証可能性の中に存在しているということである。従って特殊的な事実において事物をみ、且つ処理しようという態度が実際的態度なのであり、そのことは理論的関心を無視しているということにはならないのである。
 従って第七の誤解についてはプラグマティズムは次のように弁明しうる。実際的結果を重視するということが世俗的な意味で金銭上の損得の立場にたったり、あるいは自利を期待する方向に身をむける(究極的にプラグマティズムはそのような哲学であると真面目に考える人もいる)というのでないならば、プラグマティズムは、命題の意味であろうが事物の特性であろうが、常にその特殊的姿に着目しているという一貫した態度をもっているという意味において、大いに理論的でもあるのである、と。
 とはいえここにおいても問題が残るのである。どうやらジェイムズはプラグマティズムが世俗的な行為には関心がなく、真理とか価値の問題に真正面にとりくんでいることから理論的関心をもっているといいたいらしい。なる程彼のプラグマティズムが名目論的であるという意味からはある種の理論に関心をもっているといえなくもない。しかしながらジェイムズの有名な定義「それは真理であるから有用である」
(18)及び「それは有用であるから真理である」(19)が積極的に認められるとするならば、「実際的結果」にかけて吟味するという態度は決して特殊的姿にのみ着目するという一貫した態度ではなくなり、従ってわれわれはとにかく事実のどのような姿でもよい、われわれの生物学的な行為の発露として肯定するものは肯定し、又事実がどのような本性であるかは頓着しないで、ただわれわれの洗練された功利主義的観点に導かれた「実際」という結果によって対象の判断をすればよいという無節操ぶりを容認することになりかねないのである。
 ジェイムズが第七の誤解を誤解でないといいきるのであれば、そしてかかる有用性と真理の問題を全く理論のそれとしてとりあつかうならば、唯我論の世界に入りこむのが最も整合的な立場である筈である。しかしながらジェイムズはプラグマティズムが唯我論的であるという評価を拒否しようとする。第三、第四の誤解に対する弁明においてもあきらかな如く、彼はかかる評価をうけるや、直ちに実在論者の立場におきかえ、他人の頭痛の存在についても認めようとする。それは何によってであろうか。ジェイムズにとって何かを実在と呼ぶ根拠となるのは何かといえば、それは現存の批判者、探求者の信念ないしは信仰であった。しかしながらこの言明がプラグマティズムを唯我論の世界から解放するのだろうか、むしろ逆に唯我論の世界へ没入させる危険性をもっているのではないだろうか。してみるとジェイムズは何をもってプラグマティズムは唯我論的でないとするのか。
 それは知覚の性格によってなのである。われわれは以前にプラグマティズムはある意味できわめて認識論的であることを知った。それでは認識において実在論的に考えるというのはいかなる意味であるのか。ジェイムズにとって対象を知るということは世界が供給する文脈を通じて対象に導くということであった。しかしながらその対象は認識される人間の知覚として映じられる。そしてこの知覚は唯我論の世界においてばらばらに存在しているのではなく、ある程度の類似性を認めようとする心の働きとともにある。唯我論の世界における私の知覚と他のそれとの類似性を認めることこそ、他人の頭痛の存在をも認めさせる根拠になるとジェイムズは考えているのである。
 ジェイムズは次のようにのべる。「われわれが離ればなれになっておたがいに反発しあう唯我論の混乱の中にとびこむことから救い、防いでくれることのできるのは何か。何を通してわれわれのいくつかの心は連帯しうるのか。それはただおたがいを規定する力をもつわれわれの知覚的感情の心の相互の類似である。」
(20)
 このような知覚の特性とは何か。それは知覚が実在に対し直接的、間接的を問わず作用し、且つ実在と類似するならば、その実在がいかなるものであれ、それを知る、ということである。それ故われわれはプラグマティズムが単に観念の作用性のみを重視しているのではない点を確認せねばならない。たしかにジェイムズにおいてはわれわれの認識の行為に際し、実在を知るというのは実在の感じを知るの意である。だがこの感じは感じの内部における実在への作用性として機能しているのみならず、実在との類似性を感じとるという機能をもなしているのである。実在の感じは実在に対して類似なく作用しているのであればそれは誤謬であり、作用なく類似しているのであれば夢である。実在とは、ジェイムズにあっては、決して夢のようなものでもなく、又主観の一方的作用のもたらす誤謬でもなく、まさにそれはわれわれにみえるがままのもの、そしてそれがみえるがままのものである限りにおいて、あるものなのである。
 とはいえここにおいてもわれわれはジェイムズのいうように実在を実在の感じとしてうけとる限り、感じとしてある限りでの実在が唯我論の考える実在とどう違っているのかを明確にしえないだろう。そもそも実在を知りうるというわれわれの心の相互の類似性が、ただちに、感じとしての実在をわれわれの共通の世界へと向かわしめるのだと考えるにはあまりにも論理の飛躍があるからである。
 以上われわれはジェイムズがプラグマティズムに対する誤解としてうけとった八つの項目を眺望することによって、ジェイムズのプラグマティズムの特徴についての素描を行ってきた。ジェイムズのプラグマティズムの中心思想は、結局、真理に関するある見方の強調のようである。それは真理を主知主義のもたらす珠玉の成果として考えるのではなく、人間的要素を多分に含んでいる具体的なものとして見よ、と強調する。従来の真理観は「実在と観念の一致」という図式的なものであった。ジェイムズとてこの図式性そのものについては反対はしない。だがジェイムズはその上にその「一致」が具体的にいかなることをさししめしているのかを吟味するようつけ加える。
 これは従来の真理観を補足するという結果に終わるだけではなく、新たに真理の考え方の根本的な変革を求めているのである。即ち実在にしろ観念にしろ、それらを決して静止的に考えるべき対象としてではなく、それ故に真理をそれら二つの対象間のある関係としてではなく、常に具体的経験の中での生きものとしてとらえようとするのである。ジェイムズによれば真理はかかる具体的経験におけるわれわれの思考についての方便的なものとして機能している。「真なるもの」とはそれがわれわれの具体的経験を導くが故に価値があるのである。
 ここでわれわれが注意せねばならない点がある。それは真理は決して事実の機能ではないという点の主張のあいまいさである。プラグマティズムは事実に専念する。しかしながら事実は単にあるだけであり、それ自体でもって真偽のいずれかであるともいうことはできない。事実は実在的であるか、そうでないかのどちらかであり、その観念が真であるか、そうでないかのどちらかであるといわれうるのである。それ故ここからもわれわれは簡単に真理が実在と観念の一致といわれえないのである。
 もしその一致をいう場合には必ず実在とは事実がわれわれの信念と結びついていたなにかであり、観念はその実在に対して働きかけるように可能にする道具として機能していることが守られていなければならないのである。そして真理とはかかる状況のもとにおいての観念についてのある特性をいっているのである。この特性が前述の如くわれわれの思考において、そこから行動を導きだす「方便的なもの」なのである。とはいえここにおいて生じる問題は実在的といわれる事実とは具体的に何をさしているかである。もしそれがわれわれの認識主観と対立すると普通考えられているものであるとするならば問題はないかもしれない。しかしながらジェイムズにおいてはかかる事実も又われわれの経験の中にあり、経験の別のあり方であるとみなされているのであるから、感覚論的経験主義のある唯我論の術中におちいっていないとはいいきれないのである。
 ジェイムズにとれば事実と観念はわれわれの経験の異なった側面にすぎず、実在と真理はそれぞれの特殊な状態に対する一つのあり方をしめしているにすぎない。その意味では真理は事実の機能ではないとは断言できないかもしれない。なぜならば事実とは、ジェイムズにとれば、われわれの認識に関わってくる限りでの事実であり、それがわれわれの思考の対象にされているからである。すでにわれわれは経験がかかる事実をも含みこむ統一性と連続性を有していることを知っている。この規定によってわれわれは一つのディレンマにおちいらざるをえない。真理が観念の機能であって事実の機能でないという次元においては真理は主観的であるといわれてもしかたがない。だが真理が事実の機能でないにしても、われわれの経験についてのなんらかの意味を賦与するものでなければならないとするならば、経験的事実も又主観的に考えられ、従って真理も又主観的であるといわれざるをえなくなる。いいかえれば事実といわれるものに対しても真理の概念を適用せざるをえなくなるのではないだろうか。
 この傾向はジェイムズが経験の連続性、即ち具体的経験、特殊的経験としての存在の様態を積極的に認めるに至って決定的になる。経験が具体的、特殊的でなければならないという限定性は、彼の中立的neutralな経験の概念をそっくり主観の側に含みこまなければ成立しえないからである。さすればジェイムズはなぜに実在と真理を区別して論じるという、矛盾的な論述方法を採用したのであろうか。結論的にいえばジェイムズはやはり主観と客観の二元論の調整をプラグマティックにもなしえなかったからであるといえるだろう。
 このようにジェイムズのプラグマティズムも又主観と客観の二元論の問題に終止符をうてず、たえず同じ問題に帰着しては又そこから離れるというくり返しを行っている。そのためラッセルのいうようにわれわれはジェイムズの考えを忠実に展開すればするほど、次第に熱くなる風呂の中で、自らも熱くなってくる状況においこまれるのである。ジェイムズのプラグマティズムは、すべてを実際的結果でもって判断するという意味では、形而上学的論争に終止符をうつことはできるだろうが、その方法に主観と客観との関係についての考察、即ち認識論としての役割をはたさせようとした点で、かえって問題をややこしくしたのである。なぜならばプラグマティズムの方法は観念の意味をあきらかにすることによって、われわれの行動に寄与するよう考えだされたのであり、その意味では命題の意味が問われていたにもかかわらず、今度は具体的経験の場における認識論的論争をひきおこしてしまったからである。

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